先祖返り

http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/archives/24099282.html

引用ここから

中国の世界を恐れぬ傲慢不遜な態度が、米欧を敵に回してしまった。新型コロナウイルスのパンデミックと、香港への国家安全法導入で「一国二制度」を一方的に破棄した結果だ。香港問題は、人権弾圧を生み出しており、EU(欧州連合)が絶対に容認できない問題である。中国流に言えば、「敏感な問題」で米欧の「尾」を踏んでしまったのだ。

中国の「一国二制度」破棄は、台湾をめぐる「一つの中国論」を有名無実化させる理由になっている。米国は、公然と「一つの中国論」を見直す姿勢を見せている。チェコ上院議長(大統領に次ぐ地位)は、8月末から89人の大使節団を率いて国交のない台湾を訪問した。また、同時期に中国王毅外相は、ドイツ・フランス・イタリア・チェコなど欧州5ヶ国を訪問した。いずれの訪問国でも香港の人権弾圧を批判され、欧州5ヶ国訪問は失敗した。先進国の中国批判は、極めて厳しいものであることを示した。

習近平の粛清開始が示す危機

中国は、対外的に劣勢に立たされている。中国外交部による「戦狼外交」は、失敗に終わったのだ。習近平国家主席はこうした状況下で、すでに国内の不満分子を粛清する方向に転じている。中国が粛清という「嵐の時代」を予告する不気味さを孕んでいる。中国が、包囲されてきたという危機感が充満している結果だろう。

民主主義国では、政治的な行き詰まりに直面すれば、政権交代が起こる。独裁国家では、不平不満分子を粛清する弾圧で臨む。習近平氏は、定石通りの粛清に着手した。中国危機の狼煙が上がったと言えそうだ。

中国は、新型コロナウイルスによる景気悪化や、欧米との緊張の高まりを背景に、社会的混乱や習氏の指導力を巡る反発が広がりかねない状況になっている。こうした局面に遭遇する中で、今回の粛清が習氏にとって極めて重要な取り組みとなると指摘されている。

習近平氏の側近は7月、国内の公安機関を巡る毛沢東式の粛清を呼び掛け、「剣を内へ向け、骨から毒をそぎ落とす」時が来たと言明した。こうして、たちまちのうちに粛清が始まったのだ。号令が掛かってから1週間とたたずして、中国共産党当局は警察と司法関係者少なくとも21人の調査に着手した。それ以降、これまででは最も高官レベルの上海の警察トップや表彰経験のある党幹部らなど、さらに十数人が追及されている。『ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)』(8月19日付)が報じた。

北京の精華大学元講師で中国政治研究者の呉強氏によると、中国の公安当局の支配を強めれば、習氏は党総書記として2022年に3期目続投を果たすための足場固めができる。「習氏は高圧的な国家機関を非常に頼りにしているが、同時に不信感も抱いている」と呉氏は指摘する。習氏の側近で粛清運動の指揮を一任された陳一新氏の言動も含意に富む。同氏は7月8日の会議で反腐敗運動の開始を発表した際、1942~45年の延安整風運動(毛沢東が党支配を確立した粛清運動)になぞらえた。前記WSJの報道である。

1942~45年の延安整風運動の事態になれば深刻である。整風運動は、1942年から公式に開始された。この段階では、毛沢東の権力はまだ確立されたものとはいえず、古参幹部に逆襲される恐れが無いとは言えなかった。そこで毛沢東は彼らの切り崩しを図り、毛沢東の考えを支持する者、支持しない者とをはっきりと区別することにした。毛沢東はまず、毛沢東が政治的にも思想的にも優れていることを認めさせたのである。

こういう過程を見ると現在、習近平氏が「習思想」なるものを共産党で学習させ、習近平氏を支持する者と、そうでない者を選別し始めているのだ。後者が、粛清(追放)される運命だ。多様性を原則とする民主主義社会に生きている側から言えば、中国は約80年前に戻って、揺らいでいる習近平国家主席の正統性を確立しなければならないほど、追い詰められていることが分る。

習氏は8月26日、北京の人民大会堂に全国から警察、国家安全部門の幹部300人余りを招集した。初めてとなる習氏自らによる人民警察旗の授与には、極めて大きな政治的な目的があった。簡単にいえば、軍に続く警察権力の完全掌握に向けた「のろし」とされている。この授与式の現場にいた最高指導部メンバーは、習氏以外に思想・宣伝系を担う王滬寧氏と副首相の韓正氏だけ。首相の李克強氏の姿はなかったという。李首相は、除け者にされているのだ。『日本経済新聞 電子版』(9月2日付)が報じた。ここに、中国政治の異常さと歪みが露呈されている。

引用ここまで

死那狂惨党の権力構造は、勝ち残った者の総取りという構造になっている。つまり、古代中華帝国の秦王朝から何一つ進歩していないのである。

日本では、天皇家を中心にして地方豪族殿縁組みなどで少しずつ天皇家の地位が固まった。その後は天皇は直接政治には関わらなくなった。祭祀を司り、権威を有する天皇・皇室と、世俗的・政治的権力を奮う勢力に分かれていった。

そして、世俗的・政治的権力は貴族から武士に変わり、武士から選挙で選ばれた人に変わっていった。

それが、死那では体制こそ狂惨主義を唱えているが、実態は古代王朝のままである。

そして、それは今でも北超賤も同じ事だし、南超賤は形は民主主義だが、文在寅がやっていることは古代王朝の独裁とあまり変わらない。

もうすぐ、死那も南北超賤も経済的にすごく苦しくなることは目に見えている。

だから、ここで死那や南北超賤に助けの手を差し伸べてはいけないのだ。

孤独な自獄論者

何にも縛られず思い付くままに好き放題に書いています。 物言わぬは腹ふくるるわざなり

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