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昭和13年5月、福建省厦門(アモイ)を帝国海軍第5艦隊の作戦部隊が占領すると、堀内豊秋少佐は住民との交流を深め、荒廃した地域を復興させ、公正な裁判を実施し、治安を回復させ、住民の信望を集めた。
しかし、昭和15年5月、「堀内交代」の報が伝わると、住民は転任延期を求める嘆願書を現地最高司令官・牧田覚三郎少将に提出した。
嘆願書にはこう書かれていた。
「蒋介石政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから禍が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。
堀内部隊長らを長期に亘って駐留させて頂ければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで衷心から転勤延期を切望する」。
日本のマスコミや学校では教えないが、シナ住民を苦しめていたのは日本軍ではなくシナ軍だった。シナ軍がやったことをを日本軍がやったことにしているのが日本の間違った歴史観である。
そして堀内転勤に対し、シナ人住民達は寄付を募り「去思碑」という記念碑を建立して堀内の徳を称えた。
シナ人がここまでして慕う日本人がいたのだ。
しかし戦後、シナ共産党によってこの碑は破壊されて今は残存していない。
この堀内の次の任務は、大東亜戦争当初、オランダに支配されていたインドネシアのメナドに落下傘の奇襲部隊の指揮をすることであった。
インドネシアには昔から「国家・国民が危機に陥らんとした時、北方の空より翼が生えた白馬に跨った獅子達が救援に舞い降りてくる」という“ジョヨボヨ伝説”があり、堀内の落下傘部隊はその予言の如く、インドネシア住民にとっては英雄そのものであった。
当時、これをアニメにしたのが『桃太郎 海の神兵』であり、主人公のモデルは堀内であった。
戦後、堀内豊秋はB級戦犯にされた。理由は「投降したオランダ兵への暴行と虐待」であった。堀内を知る人々は耳を疑った。
堀内はシナでもインドネシアでも地元の住民から残留の嘆願がされるほど慕われていた誠実な人間である。
堀内は元部下が同じように戦犯指名を受けていることを知り、巣鴨刑務所に出頭して、自分が証言することで部下を救おうとした。
そして、堀内はその部下の罪を被って銃殺された。
その潔さに心打たれたオランダ当局は海軍大佐として葬列を遇したほどである。
堀内豊秋大佐の辞世、
神ぞ知る 罪なき罪に果つるとも
生き残るらむ 大和魂
平成7年、インドネシア独立50周年で、メナドの住民達は堀内豊秋大佐の慰霊碑を建立した。
これはインドネシアで堀内大佐のことを慕って、ずっと語り継いできた証であるが、肝心の日本人は堀内大佐の「生き残るらむ 大和魂」をほとんど知らないのである。
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