http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200603/zhuanwen64.htm
引用ここから
戦争の時代はすでに過ぎ去り、平和の日々を享受している今日、中国人民は新中国に貢献した日本の友人たちを忘れることはない。中国共産党初の航空学校「東北民主連軍航空学校」(通称・東北老航校)の創設については、本誌で以前紹介した『新中国に貢献した日本人たち』(日本僑報社)にも記述されているが、本誌編集部は王海さんから直接お話をうかがった。
航空学校の創設
1949年10月1日、中華人民共和国の建国式典において、整然と編隊を組んだ飛行部隊が天安門の上空をかすめるように飛んだ。かつて「粟飯プラス小銃」という厳しい条件のなかにあった解放軍が、こんなにも速く優れた戦闘能力を身につけた空軍を所有することは奇跡だと、世界は驚嘆した。この奇跡の陰には、数多くのエピソードがある。
王海さんは1946年6月、東北民主連軍航空学校に入学した。入学してまもなく、主任教官の名は林保毅であると聞いたが、この林教官がかつて日本の「帝国軍人」であったことは知らなかった。
林教官は本名を林弥一郎といい、もとは関東軍第2航空部隊第4練成飛行隊の隊長であった。日本の敗戦後、彼の部隊は東北民主連軍に包囲され、武器を引渡して投降した。その後、部隊に所属していた軍人たちは農家に分宿し、厚遇を受けた。
農民たちは、日本人は米が好きだと知ると、モミや野菜、鶏まで担いで持ってきた。林さんは、これらのモミが来年の種モミであり、民主連軍と農民たちはコーリャンやトウモロコシを食べていたということを後で知り、日本の軍人として、深く感動するとともに、内心忸怩たる思いだった。
ほどなくして、民主連軍の指導者は林部隊を瀋陽に呼び寄せ、自ら林さんと面会した。中国共産党中央東北局の彭真書記は、「中国空軍の創設に協力していただきたい」と要請した。林さんはそれに対し、「私たちは捕虜ですよ」と驚いて答えた。そばに座っていた民主連軍の伍修権参謀長は、「われわれはあなたを全面的に信頼しています」と言った。
1986年、東北民主連軍航空学校成立40周年の際、王海さん(左)は林弥一郎さん(左から2番目)をともなって、展覧会を見学した
林さんは少し考えたのち、「訓練生は教官に絶対服従すること、日本人の栄養を保証すること、日本人の生活問題に関心を持つこと」という3つの条件を提出した。思いもしなかったことに、民主連軍の指導者はこの条件に即座に応じた。伍修権参謀長は会談後、「2万5000里の長征」でずっと携帯していたブローニングの拳銃を林さんに贈った。
こうして、林さんは約280人の部隊を率いて吉林省東南部の通化へやって来て、共産党の空軍創設に協力することとなった。日本航空大隊は、東北民主連軍航空隊に改編された。彼らは東北各地から飛行機や燃料、機材を収集した。
瀋陽近くの奉集堡飛行場には、日本の「隼」(一式戦闘機)と、「九九式高等練習機」が十数機あった。林さんは部下に、出来るだけ早く修理して通化へ移送するよう命じた。当時、国民党軍と米国空軍の飛行機がすでに瀋陽へ飛んできていた。攻撃されれば、収集した飛行機が被害を受けるばかりか、瀋陽へ送り込んだ人たちにも危険が生じる。そこで通化にいた林さんは、自ら奉集堡へ赴き、彼らの撤退を指揮しようと決意した。
林さんは飛行可能な飛行機を一機探し出し、危険を顧みずに奉集堡飛行場へ飛び立った。しかし、飛行機は5メートルばかり上昇してすぐ墜落してしまった。林さん自身も重傷を負った。
入院中、航空隊の黄乃一・副政治委員が常に付き添い、肉親以上の介護をしてくれたことに林さんは深く感動した。そして退院するとすぐ、忙しい仕事に戻った。
林さんたちの協力のもと、1946年1月1日、東北民主連軍航空総隊が設立された。同年3月1日、航空総隊は航空学校と名を改め、林さんはその参議兼主任教官に就任した。これは新中国初の航空学校であった。
日本人教官と中国人訓練生
1946年、解放戦争が勃発した。創設されたばかりの航空学校は、吉林省の通化から黒竜江省の牡丹江へ移転した。さらにその後、形勢が逼迫したため、4年間に何度も移転を余儀なくされる。
1986年、王海さんは教官の中西隆さん(中央)に会った
教学と生活の環境はさらに厳しかった。飛行機は、各地に散らばっている部品を寄せ集めて造ったため、性能が悪く、危険性も高かった。燃料や機材、気象条件の制限により、訓練生は1人あたり1カ月に平均10時間しか飛行訓練が出来ない。
食事はトウモロコシのひきわりやコーリャン飯で、1週間に1回しか白いマントーが食べられない。このような厳しい条件のもと、教官と訓練生は助け合い、困難を1つ1つ克服していった。
中略
王海さんの家には、日本人形など数多くの日本の友人からのプレゼントが保存されている。毎年の新年には、当時製図を教わっていた西亜夫さんから年賀状が届く。
日本の友人からいただいたものは、こういったプレゼントだけではありません。彼らは私を大空へ飛ばせてくれたのです。彼らの仕事をおろそかにしない態度、堅忍不抜の精神から多くの影響を受けました。これは私の貴重な財産です。林さんをはじめ、たくさんの日本の友人たちは、中国の革命や建設、そして両国の友好に大きな貢献をしました。中国人民はこのことを永遠に忘れません」
引用ここまで
このような文章を読むと、死那狂惨党などと関わるのは実に無駄なことだとつくづく分かる。かつて日本人から学んだ死那狂惨党はが今東シナ海で何をしようとしているのか。恩を仇で返すというのは、何も超賤人に限らないのである。死那人も同じく恩を仇で返すのである。
死那と超賤には関わるな。それは日本人が何世代にもわたって、今後子孫にきちんと伝えていくべき事である。
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