さようなら

http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/

引用ここから

『朝鮮日報』(3月7日付)は、「外交で滅んだ国の外交行動」と題するコラムを掲載した。筆者は、前記の鮮于鉦氏である。

(1)「日本で征韓論問題が起きたのは1873年のことだ。韓国史の教科書は、日本がこのとき韓国併呑まで目標を定めて武力を通して一直線に押していったかのように記述する。結果は正しいが、内容は違う。征韓論問題は内戦(西南戦争)まで経る中で、武士の旧勢力の退場と外交を重視する新勢力の台頭に帰結した。日本の国際化に強い動力を提供した事件だ。韓国の記述は、日本の新勢力がその後、巨大な国際外交の舞台においてどのような手法で韓国を飲み込んでいったかを教えることができない」

中略

(2)「日露戦争の初期、フランス紙『ル・プチ・パリジャン』に載った有名な漫評がある。ちっぽけな日本人と体格が3倍くらいあるロシア人がリングで向き合っている。リングの床には北東アジアの地図が描かれている。ロシア人は満州と韓半島北部、日本選手は韓半島南部を踏んでいる。観客席の前列には大柄な英国人、次の列にはフランス人とドイツ人が座っている。さらにその次の列には米国人が立っている。競技場に入ることもできず、テントの上からのぞき込む中国人の様子が哀れだ」

日本はロシアと対決するとき、外交戦術で英国、フランス、ドイツ、米国を味方に引入れていたことを指摘している。

(3)「日本が英国と同盟を結んだのは1902年だ。実権を握っていた井上馨は「拾い物」だと言った。日本には、地球の反対側でチョウが羽ばたくのを鋭く読み取る卓越した外交官(注:井上馨)がいた。国際外交の力学変化を神業のごとくつかみ取り、敏速に反応した。日英同盟でロシアを孤立させた後、戦争に突入した。日本海軍は韓国の鎮海基地でロシアを待ち構えた。作家の司馬遼太郎の著書『街道をゆく』には、李舜臣(イ・スンシン)鎮魂祭を開く日本海軍の様子が出てくる。戦場へ向かう軍人らが李舜臣に向かって礼を尽くしたという記録もある。かつての敵将に対し礼儀を備えることで、戦勝を祈願した。征韓論問題もモロッコ危機も知らない韓国は、李舜臣の価値すら日本よりも理解していなかったのだ」

日本は、日露戦争で欧米への外交的根回しを十分に行なっていた。太平洋戦争では、全く異なる行動に出た。軍部が外交権を支配したからだ。日本でも外交の巧拙が、こういう差を生むことを立証している。

中略

(5)「今、北東アジアのリング上では中国選手と日本選手が向かい合っている。米国のバイデン大統領の視線で見れば、「専制政治」対「民主主義同盟」の対決だ。最前列に米国人が、その後ろにはオーストラリア人とインド人が座っている。英国人がドアを開けて入ってこようとしている。韓国はどこにいるのだろうか? 重要なのは、米中が繰り広げる「グレートゲーム」に日本が加わり、中心的な役割を果たしているという事実だ。さらに重要なのは、韓国は日本が何をしているのか知らないだけでなく、知る価値も感じていないということだ」

現在の国際情勢に目をやれば、北東アジアで日本と中国が向き合っている。日本の味方には、米国、豪州、印度がおり、新たに英国が加わろうとしている。韓国の姿はどこにも見えないのだ。韓国は、こうした情勢変化に無頓着である。

(6)「安倍政権の韓国政策には逆説的な部分があった。政権8年の間、終始関係が良くなかった韓国に外務省のエリートを集中的に配置したという点だ。親韓・嫌韓とは別に、自国の利益を重視する有能な外交官という印象を受けた。駐米日本大使をはじめ、この外交官らが各所で何か新しい枠組みをつくっていることだろう。気になりもするし、やや怖くもある」

安倍首相は、韓国への交渉でエリート外交官を当てた。これは、日本でも知られている事実である。外交交渉で日韓の障害を取り除く努力をしたのである。文政権は、朴政権で対日交渉に加わった外交官をすべて「追放」した。対日交渉では「素人」を当てたのである。これでは、まとまる話もまとまらない。文政権は、李朝の外交的失敗をそのまま繰返している。

引用ここまで

超賤民族は、どうにもならない馬鹿民族である。

歴史的に見て、いつも周辺国を巻き込んで迷惑を掛けている。

北超賤は、日本人を拉致していまだに拉致被害者の存在を認めようとはせず、帰国させなていままである。

南超賤は、日本から莫大な支援をして貰っても感謝せず、何度も繰り返している。

もう、このような愚劣きわまりない民族とは関わりを持たないようにすべきである。


孤独な自獄論者

何にも縛られず思い付くままに好き放題に書いています。 物言わぬは腹ふくるるわざなり

0コメント

  • 1000 / 1000