騒乱挑発罪とは

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引用ここから

『大紀元』(6月27日付)は、「『歴史を隠蔽』中国共産党、党100周年に合わせ各種の記録削除―米メディア」と題する記事を掲載した。

米紙『ロサンゼルス・タイムズ』(6月24日付)は、中国共産党の創建から100周年の記念日が来月に迫る中、中国当局は公式の過ちと不名誉な党史を抹消していると報じた。同時に各種記録や、反体制派を弾圧した司法判決もブロックしたという。同紙のアイリス・スー記者は2年前の報道について言及した。

(1)「天安門事件30周年に当たる2019年6月4日、天安門広場で追悼活動を行う3人の1990年代生まれの若者が当局に拘束された。その2年後、当局はこの拘束に関する記録を消去した。スー記者は中国最高裁判所および他の11の裁判所に電話をかけ、その理由を尋ねた。裁判所職員は記録が登録されていることを確認したが、非開示にした理由についての説明はなかった。職員の1人は、「我々が見せたいと思えば、あなた方はそれを見ることができる。しかし、我々が見せたくないと思えば、それを消去するだけだ」と述べた」

天安門広場で追悼活動を行う3人の1990年代生まれの若者が、2019年6月4日、拘束された。その拘束された時の扱いが、この記事の主題になっている。

(2)「28歳の董澤華さんは当時拘束された若者の1人だった。彼は天安門広場で、黄色い傘を持った香港を支援する若者、そして天安門事件で死去した人を追悼しようとする別の若者と会った。彼らは広場でほんの少しの時間滞在しただけで、拘束された。黄色い傘を持った若者は拘束後まもなくして釈放されたが、董さん2人はそれぞれ6カ月と7カ月監禁された。罪名はいつもの「騒乱挑発の罪」だ。中国人たちはこれを「ポケット罪」と呼んでいる。全てをポケットの中へ突っ込むという意味で、言論、異議を唱える者、反体制派、請願者らを弾圧する際に中国当局が常用する万能の罪だ」

天安門広場で、追悼しようとした2人の若者は、それぞれ6カ月と7カ月監禁された。罪名はいつもの「騒乱挑発の罪」である。何ら騒乱挑発をしたわけでない。死者への追悼が罪にされる国である。

(3)「董さんは2020年6月に『ロサンゼルス・タイムズ』紙に自身の拘留記録を送った。当時その記録は裁判所の判決書の公開データベースの中から見つけることができた。しかし、その1年後(2021年6月)、董さんの判決書はデータベースから消失した。「彼らは記録を削除した。あたかも中国人全員の記憶までも直接消せると言っているかのようだ」と董さんは憤慨した」

中略

(6)「董さん自身でさえ、自分が2019年のあの日に警察から暴力的な扱いを受けるとは想像もしていなかった。「彼ら(中国当局)がやっていることは、すべての中国人の思想をコントロールし、一人ひとりの歴史を抹消することだ。彼らは自分たちで歴史を書き換えようとしている」と董さんは指摘した。董さんも他の人々と同じように、中国の新世代が政府の作った物語に惑わされ、プロパガンダの背後にあるものを識別できない。たとえ何かを見つけたとしても、声を上げる場所すらないと懸念している」

中国共産党は、中国を乗っ取った集団である。国民を奴隷にし、自らの権力に対して永続性を狙っているのだ。これでは、国民に選挙権を与えるはずもない。この中国共産党の末路はどうなるのか。次第に末期症状へ陥いるほかない印象が強い。

引用ここまで

以下に品の歴史を俯瞰した物を引用した。なかなか面白い。

https://spc.jst.go.jp/experiences/impressions/impr_09001.html

以上、中国の歴史を概観してきたが、その特徴を以下に記しておきたい。

1.国家統一の条件

 紀元前221年の秦の始皇帝による天下統一以来、中国は分裂と統一を繰り返している。広い国土と多数民族を考慮すると、分裂は回避できないであろう。当然、統一には多大なコストがかかることになる。皇帝中心の中央集権制、強大な軍事力、農民の搾取、イデオロギー性の強い政治思想、ライバルの粛清が不可欠であった。日本は中国から社会制度や技術を学んだが、この点が均一性の高い日本との決定的な差異を生んだ。そして、歴史の違いは現在の日中両国の関係の底に流れている。その意味で、歴史の相互学習は非常に重要である。

新王朝の創業期が終わったあとの安定期が人々にとって最もよい時代であった。この時期に繁栄を迎え、次第に制度の矛盾が拡大し、社会秩序が弱まり、混乱期に向かう。

2.皇帝継承の条件

 皇帝継承は夏王朝を創設したとされる禹以来、世襲制の伝統に依っている。しかし、世襲制原則にもかかわらず、しばしば体制内の実力者に乗っ取られている。例外は、元や清などの塞外民族による王朝樹立期である。体制内権力闘争は官僚、宦官、外戚を巻き込み、激しさを増すが、その原因は皇帝に権力が集中しているためである。広大な国土を治めるためには、強権が不可欠であったが、それは皇帝周辺の者から見ると、その権力は魅力的であると同時に、いつか皇帝に粛清されるかも知れないと恐怖心を与えていたことであろう。皇帝の座を巡る戦いは必然的に激しいものにならざるを得ない。これは大陸文明の大きな特徴である。

3.塞外民族の漢化

 漢人による王朝は、漢、宋、明など意外に少ない。隋と唐は鮮卑系の王朝と言われている。前にも書いたが、漢王朝滅亡後、混乱期を経て人口は十分の一まで減少し、漢民族の遺伝子は滅亡したと主張する学者さえいる。

漢民族は塞外民族を漢化し、勢力を拡大してきたように見える。中華帝国の膨張として世界に恐れられている所以である。漢民族の視点では、華夷思想の下で周辺の野蛮人の文明化を図ってきたように見えるが、実際には、むしろ華夷統合により、中華文明は活力を失わずに発展してきたのだ。北方や西方の異民族の野生の血を輸血することにより、文明の発生・成熟・衰退のサイクルを繰り返してきている。そういう意味では、中華文明は塞外民族を利用し、世界帝国へと眼を開かせられていったのだ。

特に、モンゴル帝国による中国支配の歴史的経験は大きかったと思われる。明は漢民族の宋からではなく、元から多くの制度を引き継いでおり、文化の性格も元に近い。文化的に発展したが、こじんまりした宋よりも、世界帝国を目指したモンゴルが支配する元を模範として、明は発展してきたのだった。

4.衰退期に現れる宗教秘密結社

 王朝の末期に社会が混乱すると、宗教秘密結社が流民を信者として囲い込み勢力をふるうようになる。秘密結社が道教系、仏教系、キリスト教系など多種多様な宗教をもつのは面白い。皇帝をトップに頂く権力構造のなかで、庶民(=農民)は朝廷が地方に派遣する役人に搾取されていた。中央の王朝が交代すると、税制が異なってくるし、戦費がかさむと重い税金を課せられる。政権が崩壊すると全土が無秩序になり、餓死者が続出し、農民が救いを求めて宗教に走っても不思議ではない。次の皇帝を狙う者は、そのような宗教秘密結社をうまく利用したのである。

現代において、中国共産党が法輪功の動きに敏感になっているのは、このような歴史的経緯があるからであろう。宗教集団の爆発的拡大は体制を揺るがす恐れがある。

5.美女が果たした王朝滅亡

 中国の歴史にはしばしば美女が現れ、王朝崩壊の原因となっている。夏、殷、周、唐の滅亡期には、有名な美女に狂う皇帝の姿がコミカルに描かれている。実際には、特定の美女がその原因となるはずはない。美女は、むしろ後宮の代名詞ではなかろうか。為政者は政治を疎かにし、美女や酒に耽ってはならないという戒めと考えた方が自然である。ただ、皇帝に権力が集中しすぎていると、暗君の出現が王朝を傾ける可能性は高くなる。

6.中国の歴史を作った男は司馬遷

 中国の歴史における秦の始皇帝の役割は大きい。天下を最初に統一した始皇帝がいなければ、中国はヨーロッパのように分裂国家になったと思われる。しかし、中国の歴史を作ったのは『史記』を書いた司馬遷であると、筆者は考えている。為政者は『史記』を読むことにより、歴史が何たるかを学び、己の役割や後世の名声を考えて行動したと思われる。『史記』以降の歴史は、『史記』に規定されてしまったと言っても過言ではない。

7.歴史の現代への問いかけ

 中国の歴史は皇帝の歴史であり、国土統一のためには中央集権の強権が必要であった。また、文明の活力維持のために、塞外民族の野生の血を吸収しつつ、華夷思想を克服し、唐、元、明、清の世界帝国へと発展していった。中国文明の本質は、強い中央集権の維持と周辺国の活力導入による拡大志向である。中国の欧米並みの民主化は夢物語である。

辛亥革命により皇帝制度は崩壊し、それを受け継いだ中華民国も中華人民共和国も中国の古い政治体制を改革しようと努めてきた。試みはある程度成功したと評価していいと思われるが、皇帝制度の長い経験を通じて払拭できていない点もあり得る。

中国政府は“中華の復興”を唱えているが、それは世界に燦然と輝いていた過去の栄光への復帰である。外資及び技術という“現代の活力の源”の積極的導入は、過去の塞外民族の野生の血の導入と同意語であると思われる。台湾や韓国は、彼らが生き残るために、中国に積極的に進出し、投資を続けているが、それを歴史的に見ると、華夷統合理論のプロセス上にあると思われる。北京五輪開幕式で、世界のリーダー達が北京に集ったのは、中国のリーダーである胡錦濤からすると、中華帝国への“入朝”に見えたことであろう。

改革開放路線後、中国人民は共産主義体制の禁欲から解き放たれ、消費欲望を駆り立てられている。世界の石油と食糧を飲み込んでしまうのではないかとさえ危惧される。

中国の歴史を概観してきたように、統一の次には必ず分裂期がやってくる。それがいつか、どのような形かを予測することは難しい。

日本は7世紀の建国以来、中国に対して留学生を派遣しつつも、鎖国政策をとり国書を持たせていない。入朝したこともない。これは中国文明に対する恐怖心や違和感または不信感があったためであろうか。それは現在でも、日本人の心の底に色濃く残り、払拭されていないのではなかろうか。しかし、中国は世界のシステムのなかに組み込まれているので、諸外国との協調以外には生き残るすべは持たない。中華の復興は、伝統的な皇帝システムに回帰することでは決してないはずである。中国はどこへ行こうとしているのか。中国人でさえ、分からないまま驀進しているように思える。中国は、内なる皇帝制度と世界システムのなかの中国という矛盾をどのように克服するのであろうか。

世界中の国々は、中国の歴史的特徴を学び、台頭する中国と向き合う上での自らの行動指針としていくべきであろう。

引用ここまで


孤独な自獄論者

何にも縛られず思い付くままに好き放題に書いています。 物言わぬは腹ふくるるわざなり

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