蛍の光

蛍の光

一、蛍の光、窓の雪

書(ふみ)読む月日、重ねつつ。

いつしか年も、すぎの戸を、

開けてぞ今朝は、別れ行く。

【解説】蛍を集めた光や雪の明かりを頼りにして、貧しくとも共に苦労して勉学に励んできた友よ、いよいよお別れの時が来ましたね。

二、止まるも行くも、限りとて、

互(かたみ)に思う、千萬(ちよろず)の

心の端(はし)を、一言に、

幸(さき)くと許(ばか)り、歌うなり。

【解説】学舎にとどまる人も、また学を修めて卒業し、旅だってゆく人も、今日を限りと思って、お互いにかわした心の架け橋、永遠の絆を、無事にあれとばかりを念じて、この歌の一言に思いを託して歌います。

※「かたみにおもう」=お互いに思う 「さき(幸)く」=無事に

三、筑紫の極み、陸(みち)の奥、

海山遠く、隔つとも、

その眞心(まごころ)は、隔て無く、

一つに尽くせ、國の為。

【解説】九州の端や東北の奥まで、海や山々によって遠く離れていても、真心はただひとつにして互いに国の発展の為に尽くそう。

※「つくし(筑紫)」=九州の古い呼び方 「みちのおく」=陸奥。東北地方

四、千島の奥も、沖繩も、

八洲(やしま)の内の、護(まも)りなり、

至らん國に、勲(いさお)しく、

努めよ我が背、恙(つつが)無く。

【解説】千島列島の奥も沖縄も、日本の国土の守りだ。学を修め職を得て、どこの地に赴こうとも、日本各地それぞれの地域で、我が友よ、我が夫よ、我が兄弟よ、どうか無事にお元気で、勇気を持って任にあたり、務めを果たしていただきたい。

※「やしま」=八島、八洲。日本の国の古い呼び方 「いたらんくにに」=国の至る所で 「いさおしく」=勇ましく 「せ」=背、夫、兄。兄弟とか友 「つづがなく」=お元気で

原曲はスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」、作詞は稲垣千頴です。

小学唱歌集初編(1881年<明治14年>11月24日付)に掲載


「蛍の光」と聞くと、ああ、卒業式のときに歌うあの曲か、と思う人は多いだろう。

だが、実際には二番までしか歌われていない。

大東亜戦争敗戦に際して、GHQが三番と四番を削除したのだ。

四番の歌詞から分かるように、お国のために出征してゆく夫、兄弟、知人の無事を祈りつつ、しっかりと任務を果たすことを願う女性が彼らを見送る歌である。


さて、私達のご先祖様が、大東亜戦争で祖国防衛のために立ち上がり、戦ってくださったからこそ、今日の日本がある。

その後先祖様達は、今靖国神社で英霊として祀られていらっしゃる。

大東亜戦争が侵略のための戦争だったなどという馬鹿げた話をいつまでも信じていてはならない。

当時のアジアは、タイと日本を除いてはほとんど白人に支配された植民地だったし、シナ大陸は清王朝が崩壊し、中華民国となっていたが、非常に不安定な時代だった。

満州事変は不幸にも、関東軍が日本政府および日本軍の了承もなく、実行されてしまったのだが。

おおよそ、この白人支配の助教を打破しなければならないというが考えが基底にあり、そこにコミンテルンの陰謀で、米国が徐々に日本を追い詰めて、ついには負けると分かっていた戦争に突入せざるを得なかった。

できれば外交によって戦争は避けたい、というのが日本の本音であったが、対米戦争をするかどうかを決める御前会議で、昭和天皇は明治天皇御製を詠まれた。

よもの海みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらむ

世界中の人々はみんな兄弟だと思っているのに、どうして争うのだろうか――という和歌に託して、平和的な解決を望まれた。

しかし、米国のルーズベルト大統領は極端なまでの人種差別者で、特に日本人が大嫌いだ。

御前会議で発言した永野修身海軍軍令部総長の言葉が当時の指導者たちの苦しい胸の内をよく表している。

「戦わなくても国は滅びる、戦っても国は滅びるのなら戦おう。戦わなくて滅びれば、身も心も民族永遠の亡国だが、戦って国を護る精神に徹すれば、たとえ負けてわれわれが滅んでも祖国を護る精神が残り、子孫がこの国を再建してくれるだろう」


孤独な自獄論者

何にも縛られず思い付くままに好き放題に書いています。 物言わぬは腹ふくるるわざなり

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